1)阪神大震災から、今日で12年
の1本でいきます。
1)「阪神・淡路大震災」が発生してから、今日で12年が経ちました。
「震災12年特集」
「1.17写真特集」(いずれも「神戸新聞」)
「阪神「あの日」から12年、追悼の灯に冥福祈る」(讀賣新聞)
「阪神・淡路大震災」…被害の詳細
「兵庫県南部地震」…本震の概要
(いずれも「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」より)
…今年で干支がひとまわり…ある意味、節目の年です。
現場では今なお、課題が山積しています。
「[減災]阪神大震災12年 被災地の課題」(讀賣新聞)
特に、おいらが気になるのは、独居者・高齢者のいわゆる「孤独死」。
得てしてマスコミは、対策の主を行政をしたがります。
しかし、果たしてそれでいいのでしょうか?
もちろん、ハード面・ソフト面・金銭面など、公的支援が不可欠なのは明らかです。
でも、それはあくまで補完だと思います。
まずは地域社会の、もっと言えば支援住宅内での連携が不可欠だと思います。
今でも、地震前のマンション自治と比べれば、出来ていると思います(思いたいです)。
しかし、支援住宅にお住いの方、また支援住宅がある地域にお住いの方も、
まずは自分が一番ですから、手が回らない面もあるでしょう。
しかし、震災を乗り越えた仲間ですし、命を落とした六千有余名の分まで生き抜くには、
身近な人たちがさらに絆を深めるということが第一だと思います。
今、日本が失いつつある「地域のつながり」の「復興モデル」にもなるのでは?
当時のおいらの話を…去年もほぼ同じ事を書いていますが…。
おいらは徳島で働いていて、会社の独身寮で震度4に遭いました。
何故か3分くらい前に目が覚め、ぼーっと布団に潜っていると、
「ゴーーーーーーーーーー」
という飛行機が低空を飛ぶような音がし、その後揺れが来ました。
(地震前にそんな音を聞いたのは、後にも先にもそれ1回きりです。)
当時でも築30年近く経った寮で、建て替えが検討されていたボロ屋だったので、
(現在は建て替え済み)
「アカン、つぶれる」というのがまず頭をよぎりました。
当時道路を管理する仕事に携わっていたため、
「揺れと同時に仕事開始」と言ってもいい状況だったんですが、バタバタしましたねえ。
徳島でも、道路に大きな灯籠が倒れたりしていました。
鳴門海峡付近では、同じ震度4でも全く揺れが違ったようですね。
宝塚に従兄がいた(現在もいる)ので、仕事の合間を縫って電話するもつながらず、
高松にある彼の実家に電話して、ようやく安否を確認したのを覚えていますね。
…それから12年…その日に生まれた子は、4月から小学6年。
21だったおいらも33…風化が懸念されます。
現在は、実際の映像だったり、生音だったりが撮影・収集が簡単になり、
また保存媒体の普及・進化で、より生々しいものを残しやすくなりました。
しかし、それだけではただの「資料集」に過ぎません。
魂の入った文章・言葉が、不可欠になります。
幸い、今は「ブログ」なるものが爆発的に普及しています。
800万を超えるブログが開設されています。
ここに一文でも、一言でも言葉を残す…。
これだけでも十分な役目を果たせるのでは、と思います。
直接被災されなかった人が「こんな話を聞いた」というのを残すだけでも、
十分ではないでしょうか?
…自分が直接揺れを感じ、仕事にも関係する話だったので、どうしても長くなる…。
今日は2題で行くつもりで、もう一つ書き上げているんですが、
震災ネタだけにし、もう一つは明日に回します。
ではでは。
タグ:阪神大震災

















私もあの日、兵庫の自宅で被災しました。やたら寒い日で、今でもあの日のことは覚えています。
ああ、YOSHIさんは兵庫でしたか。
そしたら、より感慨深い(語弊があるな…)ですね…。
確か成人の日を絡めた3連休明けで、
みんなが正月休み含めて休みボケしているところに来たんですよね。
おいらも、忘れない1日になりました…。